本質はどこに
震災から3カ月が過ぎた。先週末は行く先々で最大余震を警戒する話や、いつ頃が危ないらしいなどという噂が口にのぼっていた。まあ地震は忘れた頃に不意を突いてやってくるものではあるので、どんなレベルであれ警戒を解かない姿勢は大事だと思う。国民の意識は原発の方にばかり比重が掛かっているようだけど、人災である原発事故と天災である大地震、双方に目配りしていかないとならない。本当に大変な時代になったものだ。
ウイルス変異や生肉問題、大地震に原発の杜撰管理と、ここで書いたことが何やら未来日誌化しているような薄気味悪さを感じるので、あまり具体的なことは書きたくないのだけど、チリやアイスランド、南九州の噴火、ニュージーランドの相次ぐ地震、スペインの地震なども併せて考えると、今地球の内部で何らかの大きな活動期に入っていることだけは間違いなさそうだ。環太平洋での異常が多いことから、CNNでは堂々と、「次はアメリカ西海岸が危ない」と特集番組を組んでいるとのことだが、日本だったら恐怖を煽るとか言われてなかなかできないだろう。
パニックについては、いたずらに群集心理を煽る危険性ばかりが取り沙汰されているが、今回の原発事故については、政治家がパニックに対する間違った解釈に基づいて対策を遅れさせたという指摘が出ている。それとほぼ同じくして、読売オンラインで次のような記事を目にした。パニックというものに対する意識を持ち直す意味で興味深かった。
http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=41980&from=yh
ここでは人間の心理という面からパニックという言葉への先入観の誤りを指摘しているけれど、そういった側面を離れても、改めて言葉の持つ意味について考えておくことは無駄ではないだろう。なぜなら「パニック」にしても、また「風評被害」という言葉にしても、それが情報統制の理由や方便に使われていないかどうか、国民は目を光らせ思考する必要があるように思うからだ。
福島のメルトスルーのその後も、もんじゅの炉の中に落ちている棒の話も、事実から目を背けることなくきちんと報道すべきである。
原発といえば、この半月くらいの間に目にしたニュースから1つ。青森県知事選で原発推進派が勝利。NHKのニュースでは現地の有権者への取材が映し出されていて「危ないのはよーく分かっているけれど、原発のおかげで出稼ぎに行かなくて良くなったから・・・・」と語る、初老の婦人の諦念すら漂う、複雑な表情が忘れられない。
原発が是か非かという以前に、日本の原発行政が、こうした歪んだ形で拙速に進められてきたことをまず押さえるべきである。先日書いた、福島の原発付近を故卿に持つタクシー運転手の話といい、また福島出身の西田敏行が2,3日前に講演会を開いた時に、原発建築の際の地元のゴタゴタについて告発したことといい、日本の原発が経済論理を最優先させて、金で人の横っ面をはたくような形で推進されてきたこと自体をまず回顧しなくてはならない。
その結果、安全面が後回し(データ改竄、地質学者のアドバイス無視など続々出てくる事実・・・立地自体も、その安全性よりも、金を欲している貧しい自治体がターゲットにされて決まった・・・その方が誘致してもらえるから)にされて、今回の事故に繋がり、それを想定外という言葉で済まそうとしている流れを押さえておかないと、同じ災禍を繰り返すことになる。
前にも書いたけれど、「原発を管理する人たちの在り方と責任感」、問われるのはまずここだ。でないと、結局電力不足→経済失速というシナリオを人質にとってしまい、国民にとって本当に有益かつ安全なのは現状、現実的にどういうスタイルを採ることかという議論を飛ばし(是か非かという二者択一レベルでは済まないはずだ)、なし崩しに元に戻そうという勢力が必ず出てくる。
放射能が危険云々、原発が必要悪云々ということもさることながら、こういう人たちに、こういう体制に、高次元の管理を要する危ないものを預けておくことの方がどれだけ危険か。
単に恐怖心の次元からの反原発運動ばかりが目立っているが、そういう視点からの検証がほとんど出てきていないのは意外である。
ということで、おととい目にした山本拓議員や鳩山由紀夫らが中心となっている「地下原発推進議連」にも同様のキナ臭さを感じる。「あと2,3年の内に専門家を“巻き込んで”国民の“意識を高めて”いきたい」というコメントをどう読むか?地下に潜らせれば済む問題なのだろうか?
| 固定リンク