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2011年7月26日 (火)

2つの訃報

先週から今週にかけて、訃報が相次いでいる。その中で個人的に感じるものが強かったのは、原田芳雄と中村とうようだ。

 原田芳雄の死については、やはり1つの時代の終焉を感じずにはいられなかった。子供のころから見続けてきて、(最初は日テレの「冬物語」というドラマだった。たしか大原麗子との共演)子供心に自分の知る大人たちとは全く違う人種の、近づけない世界の住人であることを焼き付けられ、そんな世界への憧れを強く感じさせてくれた俳優だった。

思えば松田優作、萩原健一、勝新太郎、室田日出男、藤竜也・・・・テレビドラマの本当に幸福な時代を、多感な時期に体験できたことは大変な幸運だったと思う。と同時に、決してオッサンのノスタルジーではなく、今30代以下の人たちは、テレビ文化の貧困さしか味わっていないという意味ではかわいそうにすら感じる。

「寝盗られ宗介」は映画館へ見に行ったし、「いつかギラギラする日」の殺し屋も良かった。80年代初期のサブカル大集合だった「コミック雑誌なんかいらない」「ビリーザキッドの新しい夜明け」、そして飯田監督が好きで見に行った「アナザヘヴン」と、自分の好きな監督の作品には大抵絡んでいた俳優だった。 

シンガーとしての原田氏も好きで、82年頃にビールかなにかのCMで使われた「イッツオールライト」という曲を特に覚えている。ハ行の発音に独特のクセがあって、それがカッコ良かった。また数々のシンガーがカバーしているエディ藩(ゴールデンカップス!)の名曲「横浜ホンキートンクブルース」も、本家のエディや松田優作のバージョンよりも、原田バージョンが最高だと今でも思っている。横浜の「ハ」、ホンキートンクの「ホ」と、ハ行の文字が2つ入っていて、それが絶妙のアクセントとなっていた。

 中村とうよう氏とは、仕事上で少し因縁があった。ご存じミュージックマガジンの大編集長だった時代、ラジオ番組の企画でゲストに呼ぶ交渉をして、一度は受諾してくれた。しかし収録5日前に突然出演を拒否。その理由が「よく考えた結果、わずか〇万円のギャラで出るということは、金額の問題ではなく、その程度のギャラしか払えないほど局が下請け制作会社を搾取しているという構造に、私が加担したことになると判断したので、悪しからず」というもの。まあ怒るを通り越して当時は呆れた。

とにかく番宣も出している以上、制作会社の社員だった私は局への事情説明と陳謝に追われて、慌ててミュージックマガジン社を辞めたばかりの音楽ライター藤田正氏へ泣きつき、事情を伝えて代打出演を乞い、何とか乗り切った思い出がある。

 しばらくは当時のことを恨みにも思ったが、その後の氏の活動や発言を今にして考えると、なんと不自由な生き方を敢えて貫いたのかと、その潔さには敬意すら感じる。良い悪い、好き嫌いは別にして、70年代後半から90年代前半の音楽関係者には何らかの影響を与えた人物である。自殺の疑いもあるそうだが、そんな生き方に疲れてしまわれたのだろうか・・・。

 それに、JAGATARAを日のあたる場所へ押し出してくれた人としても忘れ難いし、そのことだけでも感謝。

 合掌。

 

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