新年にあたり
今年もよろしくお願い致します。
年が明けた直後に長野で、そして午後には東京を中心に東日本全体で揺れを観測した、やや大きめの地震があった。共に最大震度は4。特に鳥島を震源地とする地震の方は、震源の深さ370キロというかなり深い所でのもので、マグニチュードは7.0と大きかった。
日本人は年が改まると前年のことを何かとリセットしてしまうものだが、今年も大震災の教訓と警戒心を忘れてはならないという戒めなのかもしれない。
とにかく、日本(というか地球規模で)が地震の活発期に入ったことは疑いのないことであり、私の目の黒い間はもう警戒を解くわけにはいかないのかもしれない。腹を括って生きていくしかないだろう。
地震、そしてそれに続く原発事故を契機に、自分がどういう生活を選択していくべきか、自分で情報を集め、自分の判断を信じ、自分で考えるという時代が本当に訪れたことを痛感する。そして将来的に、自分がその時選択したことの責任を負うということも出てくるはずだ。当然と言えば当然のことではあるのだが、特に日本人は、大事なところでは国がなんとかしてくれるとか、どうにかなるという楽観的な思考をしてしまいがちだった。いよいよ、自分に関するすべてのことが自分に委ねられる時代に、野放しにされたということなのだろう。
去年も一昨年も年頭に「目に見えないものの重要さ」について書いた気がするが、言い換えればそれは精神とか心という領分にあるもの=哲学だ。結局、どんな「理」(数字やシステム、データなどの客観的事象)も、それを使い動かすのは人間の心である。
また反対に、どんなに高邁な思想や、道義に基づく情があったとしても、それを具現化しようとしたり、人に伝えたりするためには「理」の裏付けがないと無理だ。ところが近代は、その「理」の方へ極端に振れてしまうことが続いていて、バランスが崩れている。理を追求するあまり、哲学が排斥された時代ともいえる。原発事故以降、学者、知識人、文化人と称する人たちの中に、そのバランスが全く取れていない手合いが相当いることが発覚したこともこれを裏付けている。しかしすべてにおいて、二者択一の価値観の危険さははからずも露呈している。これからは相反する領域同士のバランス、科学と哲学のバランスがカギとなってくるはずだ。一つの思想や思考回路に陥ることの愚かしさを悟ること。こうだからこうでなければならないという考え方を捨てること・・・とも言いかえられる。
データのような一見客観的な不変の真実に見えるものでも、いくらでも都合のよいように操作できるということがこれだけ明白になった年もないだろう。理を動かすのは結局個々の人間の心や意思だ。もっともな顔をした嘘を見破るためにも、「理」と「想」のバランスは重要だ。まさにそれこそが理想なのである。
もう1つ、今書いたこととも通底するのだが、とにかくあらゆる分野において、閉塞した状況を生みだしているのは「偏向」「偏重」である。他人や主流と同じであることに安心し、勝ち組に属して小さな安心を得ることに汲々としているから、より一元化が進み、より圧倒的な勝ち組が出来上がっていく。進んで牛後となり鶏口になることを恐れる。政治も経済も文化においても、こうした態度が諸悪の根源となっている。
どこかに属するのではなく、自分はどうなのか、自分は他者とどこが違うのかを主張すること。他のやっていないこと、気付いていないことを探すこと。孤立することや異端視されることを意に介さないこと。閉塞感を打ち破るために、すすんで「異」たる勇気を持ちたいものだ・・・と年頭につらつらと考えた。
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社説の年頭所感か。
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