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2016年8月10日 (水)

清水成駿さんを偲ぶ

 とにかく暑かった89日。上野駅公園口に降り立ち、セミの声がそのまま読経のように聞こえる中、寛永寺で行われた清水成駿さんの告別式に参列してきた。

 初めてお目にかかった日から10年に足らず、また直接お話しさせて頂いた時間を凝縮してもおそらく5時間にも満たない程度の交わりだった私に、何が書けるわけでもない。ただ、その短さの割には、思い出されることはたくさんあるのも確かだ。

 

私の学生時代に、大橋巨泉氏や山野浩一氏、大川慶次郎氏らが重鎮であった競馬予想業界に、若武者の如く颯爽と登場されたという印象がある。読ませる予想という意味では寺山修司が70年代にすでに名を成していたが、清水さんの文章は寺山にはないハードボイルド的な雰囲気が漂っていて、若造が憧れるようなダンディズムが横溢していた。そしてラジオ業界に入ってから、先輩たちとの徹夜麻雀のあと、土曜明け方には彼らが1馬を手に、今度は競馬予想談議に入るのが定番となっていたのだが、そこでも「清水成駿がああ書いていた、こう書いていた」という話で占められていた。

 

 そんな雲の上の存在だった清水さんとお近づきになれたのは、10年近く前のこと。誘いは突然やってきた。私が当時、グリーンチャンネルの日曜中継の午後解説を何度か担当していたのを見て下さり、ラジオ日本に推挙して下さったのだ。もちろんそれまでに清水さんと何の面識もない。驚くと同時に、子供の頃から聞いていたラジオ日本の中継に、大学生の頃から勝手に私淑してきた清水さんの導きで参加できるという、このとんでもない運命に震えるほどの嬉しさを感じたものだった。

 

 面接・・・というわけではないが、ラジオの話が決まって一度食事でも・・・と、本郷三丁目の近くにあるお店に招かれた。今も続いている最強の法則の私の連載を読んでいて下さったそうで「お前もああいうことを書いていると生きにくいだろ?」とニヤニヤ笑っておられた(苦笑)。

大抵のことには物怖じしない性質ではあるが、さすがに緊張からまともに顔を見られず、問われたことにもハイ、イイエくらいしか答えられなかった記憶がある。口ほどにもないつまらん奴と思われたのではないかと後悔したが、なぜかその後も、いろいろな席に年に12度招いて下さった。柏木集保さんや丹下日出夫さん、本村凌二先生にも、そうした席でお目に掛かれた。特に東大の本村教授(元)との場に混ぜて頂いた時には、中国史において博覧強記である清水さんと、西洋史の大家である本村先生との、頭上を飛び交う知識の応酬を、身を低くして聞いているのみという状態だったが、滋養溢れる話を聞いているだけで大変な勉強となったものだった。

 

 清水さんほどの方になれば、ほとんどの他の競馬評論家、予想家は格下であり、またメディアで分かったようなことを言っている若い奴らは鼻にも掛けないというのが当然だと思うのだが、年齢関係なく、キャリア関係なく、ご自分が面白いと思った人にはご自分からアプローチしてきて、いくらでも話を聞いて下さるという、驚くほどの懐の深さと柔らかい頭脳をお持ちの方だった。そしてこちらの家族のことまで気にかけて下さるという優しさに溢れていた。

 

 ラジオ日本の現場をリタイアされてからも、年に何度かマイクの前に立たれるのが恒例で、とくに中山金杯は34年前くらいまでは毎年担当されていた。目の前で凄さを見せつけられたのは、アドマイヤフジが勝った時。相手3頭で馬単で大勝負されて、今だから書くが、あっという間に帯封が3つ転がったものだった。

 

 予想のことでお褒めを頂くことはついぞ無いままだったが、イベントや放送関係ではお言葉を頂戴したことがある。エイシンフラッシュが勝ったダービー、新橋ヤクルトホールで東京スポーツとラジオ日本、競馬ラボが共催したフェスティバルでは、台本と一部出演を担当したのだが、「うん、よかったんじゃないの。気持ち良くできたよ。さすがだ」と褒めて下さった。そしてニコ生競馬の第1回、アユサンが勝った桜花賞、番組にフルで出て頂いた時。「お前の司会は面白いな。オールナイトニッポンでも務まるよ(笑)」と冗談交じりでおっしゃっていた。

 

 しかしこの後くらいから、清水さんは御病気がちとなる。もともと、20年近く前に腎臓癌の手術をされていて、片方の腎臓を摘出されていたのだが、残された方の機能が落ちてしまい、透析生活に入ることになる。そして一昨年、すい臓癌が発覚。ただでさえ大病なのに、透析をしながらの治療は苛烈を極めたと思う。一時はよく効く抗がん剤が見つかって好転しつつあったのだが、透析との兼ね合いでその薬が使えなくなるという不運にも見舞われてしまった。それでも、東スポの馬単三国志の連載はしばらく毎週続けておられた。それがGⅠだけになり、そしてダービー、有馬記念など年に数回だけになりと減って行き・・・・。お加減の悪さが伝わってきた。

 

 先月21日、入院先へ顔を見せに伺った時は、だいぶ痩せてしまわれて、言葉もゆっくりとなっていたが、病室のテレビで放送されていた大リーグ、イチローが3000本まであと4本という話や、場所中だった大相撲の話をしながら、他のお見舞いの方が持参したシューマイを1つ、おいしそうに頬張っておられた。これならまだ大丈夫と少し安堵したのだが・・・・。今思えば、イチロー遅すぎた。3000本安打間に合わなかった。

 

一昨年の2月、癌との戦いに入る前に開いた麻雀大会で、私が清水さんから満貫を上がったら、いきなりその後に親ッパネを直撃されて、私は決勝ラウンド目前で敗退してしまうという一幕があった。その点棒を取り返さないまま、旅立たれてしまわれた。 

これまでも、清水さんは時々ラジオ日本の中継を聞いて下さっていて、「清水さんが聞いているのだからちゃんとしゃべろう」と心中、自らを律しているところもあったのだが、今週からもその思いを忘れずに、清水さんが与えて下さった場を務め上げていこうと思う。今日、お別れを告げながらそんなことを考えた。

 

式場内にはラジオ日本での名解説が流れ、世間に喧伝された◎ボールドエンペラー2着のダービーよりも、実はご本人が予想として納得しておられた、ハードバージ・ラッキールーラの皐月賞、ゴールデンフェザントのジャパンCなどの実況が続いた。出棺の際は、車のクラクションに重ねて、昭和50年代のファンファーレが流れ、ハードバージの勝った皐月賞のゲートが開く音が響いた。これが清水さんの新しい旅立ちと思えば悲しみも紛れる。どうぞゆっくりとお眠りください。

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