本文へジャンプします。




« 6月30日・7月1日の競馬 | トップページ | 空いた口が・・・の3題 »

2018年7月 6日 (金)

7月6日、朝のニュースから

 松本サリン事件の朝は、朝6時から3時間にわたる、ラジオのニュースワイドの担当日だった。本番直前、報道のOアナウンサーが長いファックス原稿を引きちぎって駆け込んできて、「なんだか分からないけれど、松本で人がバタバタ亡くなっているんだよ」と叫んだ。火山性の毒ガスが出たのでは?とか、毒物が飲料水に混入したんじゃないか?などと推測しながら、得体の知れない恐怖に後ろから追われるような思いで、何とか情報を得ようと松本の消防署や新聞社に、繋がらない電話を必死で切ってはかけ、切ってはかけを繰り返した。本番が始まってからも一方で電話連絡を続け、また情報収集を並行しながら必死に行っていた。

 

 地下鉄サリンの時は、前日深夜の生放送を担当して朝帰りのため、月曜朝イチの会議を免除されて、自宅で惰眠を貪っていた。11時前にノロノロ起きてテレビを点けると、そこには日本とは思えない、東京とは思えないパニックが映し出されていた。会議に出られるスケジュールだったら、乗換駅が事件の犠牲者を出していた場所に該当していたことを知り慄然とした。

 

 今朝、歴史に残る残虐な、また理性や知性がいかに簡単に崩壊させられてしまうのか、狂信がもたらす恐怖がいかに大きいかを思い知らされたオウム真理教事件に大きな区切りがついたことになるが、遺族や今も後遺症に苦しむ人たちがいることを思えば、なんともやるせない気持ちになる。

 と同時に、死刑制度への批判の高まりがまた一部から上がってくることも懸念する。 後悔し反省すれば自分の罪が贖われるという言い分を否定し、また償える罪と償えない罪があるということを、人間の行動管理の規範として確立しておくべきだ。

もちろん、それには正しい裁判が行われることが前提であるが。

 

 事件に対しては、宮崎学の著書で示されている見解が最も鋭いものであると思う(もともとオルグの専門家だし)。

 

 とにかく、宗教やイデオロギーレベルの大きなものから、日常生活のもろもろの些細な事例まで、1つの確信に囚われることの愚かさと危険性を、改めて自戒したいものだ。

|