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2022年9月21日 (水)

宮沢章夫さんの思い出

 宮沢章夫さんが逝去された。65歳は早すぎる。確か記憶では喘息が持病と直接伺った気がするし、かねてから健康状態が思わしくないことは時折ツイートされていたので知ってはいた。数年前には一度重篤な事態もあったとのことだったが、今回はいきなり集中治療室に入ったというつぶやきがあってから、意味深なメッセージを最後に更新が途切れていたので、心のどこかで覚悟はしていたが・・・・。訃報からひと晩、これを書くことで、影響を多少なりとも受けた人間として(主に文章から)、気持ちの整理をしたい。

 私がラジオ番組制作会社に入社して、ADとして付いた師匠的存在のディレクターが、どういう経緯なのかは知らないのだが、宮沢さんの当時の劇団「ラジカルガジベリビンバシステム」の公演の音効を担当し、私も駆り出されて、まだ右も左もよく分からない頃であったが、言われるままに必死で手伝いをすることになったのが、確か1988年のことだったと思う(もう34年前か!)

 宮沢さんが赤坂にあったウチの会社のスタジオに来て、5日間くらい連続で、音源選びやSE作りの指揮をされた。こちらの通常の仕事が終わって、夜8時前くらいからスタートし、予めオーダーに従ってある程度揃えた音源(当時は大半がまだアナログ)を宮沢さんと一緒に聞いて確認していく。ディレクターが台本と照合しながら音を流し、使いどころを決めていくのだ。決まったらそれを6ミリテープに落としていく。エコー処理をしたり、別の音を足したりしながらの録音作業。若い役者さんも何名か来て、ラフな動きと合わせて、尺決めもしていった。
 コミカルなシーンに音がハマった時の宮沢さんは、実に楽しそうに口を開けて大笑いされていたが、「ちょっと違うかもしれないな」とか、「ここに急に音がほしくなったな」とかつぶやくと、用意した音源では間に合わないことがあり、私が当時は深夜まで営業していた六本木WAVEに赤坂の事務所からタクシーを飛ばしてよく買いに行かされたものだ。多い日はたしか一晩に3回くらい行ったこともあったと記憶している。

 さらに当然お茶出しやら軽食の準備やらもこなしつつ、スタジオではレコードの掛け替えをしたりしまったり出したりリストメモを作ったり・・・完全な下働きだったが、若かったので作業中はあまりキツイとは思わなかった。もちろんミスも頻繁にしたので、師匠からの怒声も飛んでくる。

 そして効果音づくり。既製品の音源はあまり使い物にならないので、スタジオのブースで相応しい音を作っていくことになる。これが大変だった。靴の響く音、指を鳴らす音などを、絶妙の大きさや間で録音しなければならない。役者さんだけでなく、宮沢さんもブースに入って音を出す。そしてうまくいったと思っても、「やっぱり違うかな」とやり直すことがしょっちゅう。特に連続した音の場合は「間」がなかなかハマらず、何度も何度もトライしたものだ。

 宮沢さんが楽しみにされていたのは、早朝までの徹夜作業から解放されて、毎朝訪れた立ち食い蕎麦屋だった。昔のTBSの真正面、一ツ木通りを挟んだ所にあった少し広めのスタンド。ここが24時間やっていたのだ。当時でもかき揚げ、ちくわ天、イカ天、コロッケ、エビ天などはどこの立ち食いスタンドでもトッピングできたが、この店のラインアップはとにかく豊富で、シイタケ天とかアスパラ天、ウズラフライ、今では普通になったが紅しょうが天やメンチなどもあったと記憶している。普通の蕎麦屋ならともかく、当時の立ち食いでこの品揃えはなかなか珍しかった。宮沢さんはここで毎朝何をトッピングするか選ぶのが楽しみで、それまでスタジオで見せていたシビアな顔が一変し、微笑みながら品書きを眺めていた姿が思い出される。この姿が、私にとっての宮沢さんの一番の思い出だ。

 音が出来上がっての通し練習はたしか、昔のテレビ朝日の広めのスペースを借りてやったように思う。いとうせいこうさん、中村ゆうじさんやシティボーイズも参加して2日間くらい。私は本番の日は本業のスタジオがあったので、手伝いはこの通し稽古までだった。なお私はこの後、三木聡さんが演出したビシバシステムの公演でも音効の手伝いをすることになり、客演した大竹まことさんの優しさに触れることになる。

 まさに小間使いのように動き回っていた私は、宮沢さんから何度か名前を呼ばれて「水上さんこのレコードかけてみて」(口調が分かる方は脳内再生可能なのでは)と言われた。ご多忙な宮沢さんはすぐに私のことはお忘れになったと思うが、こちらとしては当時のサブカルチャーの先端を走っている方(宮沢さんブレイク前夜だった)と間近に接することができたと興奮するばかり。忘れられない思い出をいただいたと思っている。

 自分のことはさておき、それ以来直接お目にかかる機会はなかったが、もちろんエッセイが出ればなるべく読んではいたし、教育テレビでの名作「日本戦後サブカルチャー史」をはじめとするTV番組やラジオも見聞きしていた。90年代は本業演劇界で数々の戯曲賞を受賞して広く世に知られることになり、00年代は小説の人としての印象が強い。そして近年は早稲田大学で教鞭を執っておられた。 
演劇はもちろん思想、音楽、小説、講演、教育とジャンルを横断する活動で、今40代後半から50代のクリエイターに少なからず影響を与えてきた。生意気なことを書くと、忙しすぎたのだから、その分ゆっくり休んでいただきたいと思う。宮沢さんの作品はさまざまな分野で、永遠に残っていく。
「ありがとうございました」と、そして最後のツイッターに書いてあった「さようなら」という言葉をこちらからも返したい。そして時には「彼岸からの言葉」を聞かせてくれればうれしい。

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